伊勢神宮と小渕浜・五十鈴神社の深い関係

東日本大震災により社殿が傾いてしまい倒壊の危機にあった小渕浜・五十鈴神社ですが、皆様のご協力により2013年11月修復工事を無事終えることが出来ました。

 

小渕浜・五十鈴神社は毎年旧暦の6月15日に祭典を行いますが、その時の上げる幟には「天照皇大神宮」と書いてあります。

「天照皇大神宮」とは天岩戸の神隠れで有名な天照大神(あまてらすおおみかみ)のことです。天照大神は、日本神話に出てくる総氏神様で、太陽の神としても有名です。

 

小渕浜のお年寄りの方が、「五十鈴神社は、北前船の人が伊勢から材料を持ってきて作ったんだ」という話を耳にしました。

 

そこで、少し調べてみようと思いました。

北前船(きたまえぶね)をご存じの方もいらっしゃると思いますが、北前船(きたまえぶね)とは、江戸時代から明治時代にかけて活躍した主に買積み廻船(かいせん)の名称です。

廻船は、港から港へ旅客や貨物を運んで回る船のことで、買積み廻船とは商品を預かって運送をするだけではなく、航行する船主自体が商品を買い、それを売買することで利益を上げる廻船でした。

近江商人が主導権を握り、船主が主体となって貿易を行っていました。

 

北前船は色々なルートがあったようですが、1年1航路の場合、

3月頃大阪港を出発して西回り航路で、航路上の瀬戸内海を進み下関を抜けて日本海を北上しながら途中の港で商売をし5月下旬に北海道に到着。

7月下旬に北海道を出港し東周り航路で、太平洋を南下、寄港地で商売をしながら、江戸、名古屋などを回り大阪に寄港するのが11月上旬というのが、主なルートだったようです。

 

東廻り航路では太平洋側を北へ向かう黒潮の流れに逆らって進なければならないので、当時の船では航海が大変だったそうです。

また東周りの航路は、太平洋を南下する時期が台風シーズンと重なり宮城県沖の海が時化る日も多かった為、その時の避難場所となっていたのが、宮城県牡鹿半島の入り江でした。深い入り江になっていて風の影響をほとんど受けない小渕浜の浦浜はよく寄港先の避難場所として使われていたそうです。

 

文献によると小渕浜の五十鈴神社の前身は、後朱雀天皇の長久年間(1040~1043、平安時代)の時代に、その場所で神様を最初にまつり神社の起こしたと書かれています。江戸時代になると小渕浜は、年貢米のを運ぶ輸送船の寄港地であったので出入りの船も多く、航海安全祈願のため旧2月16日の祭典に御神木を奪いあい船に積むという行事ありました。そして社殿の造営祭事の興行等を行って尊信したそうです。

文政8年(1825年)2月の社殿改築(棟札)には筑前丸や最上丸などが伊勢より用材を運んだ。現在の社殿がそれであり明治7年4月に作られたと記されていました。

 

伊勢神宮では、20年に1度、遷宮(せんぐう)といって御殿をすべて新しく立て替えます。立て替えるのは、神様のパワーを継承する為など諸説あります。

そして木は、御殿としての役目を果たした後も、徹下(てっか=神仏に奉られたものがお役目を終えて下げられること、下げられた物のこと)という仕組みによって形をかえて生き続け、全国各地で再利用されているうです。

全国を回っていた北前船は、太陽の神であり、自然の神である天照大神が祭られている伊勢神社にも寄港していました。

伊勢にも寄港していた北前船の舩主は、避難場所としていた小渕浜に、その木を運び、伊勢から宮大工を連れてきて建てたそうです。

北前船の乗組員達は安全な航海と海の事故が少なくなるようにと考えたようです。

 

小渕浜・五十鈴神社を初めて見た時に、神社の細かい彫り物が繊細に出来ているなと思いました。

 

五十鈴神社の名前ですが、伊勢神宮に行った方は、すでに気付いていると思いますが、伊勢神宮内には五十鈴川という川が流れています。そこから、取ったのではないかと推測されます。

更に、小渕浜・五十鈴神社の事について調べいくと宮城県内で、五十鈴神社という名前が付いているのは31ありました。(宮城県神社庁HPによる)

気仙沼・明南・渡波・狐崎浜・小積浜・月浦・牧浜・桃浦・小渕浜・泊浜・鮫浦・前網浜・桃生町・広渕・北上町十三浜・雄勝町などです。北前船によって、宮城県の沿岸部に、伊勢から運ばれた材料で作られたのではないかと思います。

 

小渕浜・五十鈴神社には長い歴史があり、様々な方との繋がりがあることを知りました。震災をきっかけに多くの皆さんの力で修復に携わることが出来、先人たちと繋がりが出来た事を嬉しく思います。

 

北前船について

17世紀半ば、材木商の河村瑞賢が幕府に命じられて、幕府が管轄する東北地方から年貢米を江戸に運ぶ船を整備した。これを「東回り航路」といいました。これに成功した瑞賢は、次いで、日本海北部から瀬戸内海を通り、大阪へと向かう「西回り航路」を確立しました。それまで日本海関東北部の米は、敦賀か小浜で荷揚げされ、琵琶湖を経由し大阪に運ばれていましたが「西回り航路」の確立により大幅に運搬日数が短縮され、運搬による米の欠損も減少しました。

「西回り航路」の確立により、上方、瀬戸内の船も日本海へと進出し、盛んに交易が行われるようになりました。

こうした日本海交易の繁栄に伴って船体や帆の改良、航法も進歩により登場したのが、各寄港地で商品の取引を行いながら北海道へと向かう「北前船」でした。江戸時代になると寄港地をよって商売をする船を北前船と呼ぶようになりました。

 

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コメント: 2
  • #1

    Iona Cavalier (金曜日, 03 2月 2017 20:25)


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